今日のテーマ『カタカナ言葉』
前回に引き続き、言葉の話題である。 “乱れた言葉”の代名詞として槍玉に挙げられることが多いのは、若者言葉だけではない。 カタカナ言葉、である。 海外から渡って来た言葉をそのまま使ってしまい、なかなか人口に膾炙しない、そんな言葉は非常に多い。批判の的になりやすい。
平成14年、日本政府は、当時の小泉純一郎首相の意向などもあって、カタカナ語をなるべくわかりやすい日本語に置き換えよう、という指針を打ち出した。確か、有識者による会議が設置され、一定の答申が為されたはずである。
例えば『インフォームド・コンセント』 医者が患者に対して、病状や診療方針を充分に説明することである。この言葉が、初めて世間に流れ始めた頃は、意味がわからないという人が多かったらしい。かく言う僕も、何のこっちゃさっぱりだった。 それが、日本語に置換されてどうなったか。 『納得診療』になったのである。
同様に、日本語置換は積極的に行われた。 『バリア・フリー』→『共生社会』 『アイデンティティー』→『自己認識』 『モラル・ハザード』→『倫理欠如』 等々である。
すでにお気付きと思うが、いずれも四字熟語になっている。日本語=四字熟語とでも言いたげである。 この辺りの発想が実に官僚的・お役所仕事的だと感じてしまうのは僕だけではあるまい。むしろ、置換されてかえってわかりにくくなったような感すらある。 『バリア・フリー』を『共生社会』と言われても、確かに言葉の響きはそれなりに綺麗だが、本質が隠れてしまっているように聞こえてしまう。わかりやすくしようとして、かえってニュアンスがずれてしまったとすれば、本末転倒である。 『納得診療』と言われて、即座に意味を介することの出来る人を僕は知らない。
前回も記したが、言葉とは生き物である。人々が必要とした言葉は自然と社会に順応し、そうでないものは淘汰される。 もちろん、政治家などが、一部の者にしかわからないカタカナ言葉を濫用することは、有権者を煙に巻いた侮辱行為だと言われても仕方ないが、かと言って、あらゆるカタカナ言葉を刈り取ってしまうというのも、いかがなものだろうか。 現実として、今では『インフォームド・コンセント』と『納得診療』のどちらが定着しているかと言えば、それは言うまでもない話である。
そもそも、なぜ世の中には、その言葉をわかる人わからない人がいるにも関わらず、こんなにカタカナ言葉が溢れているのだろうか?
例えば『リストラ』である。 リストラ、は外来語ではない。正式には『リストラクチャリング』と言う。意味は、企業における業務規模の縮小、または効率化のことである。 が、日本では『人員削減』『強制解雇』(ああ、四字熟語表記をしてしまった)といった意味合いで定着していると言っても過言ではない。 すなわち『リストラ』という言葉は、日本人が時代性に応じて作り出した“新語”の一種なのである。
かつての流行語である『リベンジ』もそうだろう。直訳すれば“復讐”という意味だが、松坂大輔が発したこの言葉にそこまでの重い香りはしない。 『タモリ』だって『森田一義』だが、そんなことは誰も意識していないのである。
ということは、である。 そもそも日本人は、カタカナ語が好きなのではないか? カタカナ語がわかりにくい、などと言いつつも、案外それにすぐ順応し、かつ、自ら積極的にカタカナ語を作り出しているのではないか? そうだとすれば、それはなぜか? 答えはごく単純である。 カタカナが格好良いからである。
日本人の中には、いまだに西洋コンプレックスが根強く残っているように思われる。 映画俳優にしても、国内の賞(ブルーリボン賞など)を受賞してもNHKの総合ニュースでは報じられないが、これがアメリカのアカデミー賞となれば話は別である。菊地凛子がその好例であろう。 誰々が勲一等菊花大褒章を受賞した、と聞いてもピンと来ないが、ノーベル賞となれば大騒ぎになる。
なぜそうしたコンプレックスが生まれたかについての歴史的考察はここでは避けるが、やはり日本人は、無意識下で、西洋的なるものへの憧れを抱いているのではないだろうか。
と。 ここまで、ややもすると僕は「西洋コンプレックス批判」とも受け取られるようなことを書いて来たが、別にそれを批判する気は毛頭ない。 正直、カタカナ的なものに、ある種のカッコ良さを感じてしまうのは、僕の中では事実である。
実例を挙げて説明しよう。 日本的なもの(ひらがな)より、西洋的なもの(カタカナ)の方が何となく格好良く思えてしまうものとして、地名があると僕は常々思っている。 これは理屈ではない。何となく、という名の、言わば無意識の心理構造である。
「シカゴ」というミュージカル舞台がある。 映画化もされたので、ご存知の方も多いであろう。個人的には歴代の映画作品の中で五指に入る傑作である。 シカゴとは、当然、地名である。地名をそのままタイトルにしているだけなのに、作品に重みや深みが加わっている。その地名表記だけで、わくわくどきどきのドラマをイメージさせてくれる。これこそ、カタカナ表記の強さである。 そうしたカタカナ地名を幾つか列挙してみたい。
『ローマ』 おしゃれである。何てったってローマである。ヘプバーンが休日を楽しんじゃうのである。さわやかにロマンスである。
『ロンドン』 どこか怪しげである。ロンドン特有の曇天と濃い霧とれんが作りの街並みが、深く悲しい事件を想起させる。ベーカー街には名探偵だって住んでいるのである。
『パリ』 あまりにも華やかである。燦燦と輝く太陽が、シャンゼリゼ通りの噴水から放たれる水柱を照らして眩しい。真っ白なドレスのパリジェンヌが日傘から顔を覗かせこんにちは。艶やかに誘う恋心はシークレットである。
『ラスベガス』 興奮、激情、殺意、愛欲、いたたまれなくエロスである。
と、ご覧のように、カタカナ地名は何らかのイメージを我々に与えてくれるのである。そして、それらは実にカッコイイのである。 翻って、和名はどうか。確かに、イメージは与えてくれる。しかし、エンターティメント色は薄れる気がする。
『とうきょう』 かろうじて様になっている。眠れぬ大都会で夜毎繰り広げられる男女の営みと闇社会の抗争、といったところか。 舞台は六本木、あるいは歌舞伎町であろう。赤羽とか王子では決してない。
『おおさか』 十中八九、コメディー映画であろう。それもコテコテの。 吉本新喜劇揃い踏みかも知れない。たこやきとタイガースと通天閣と食い倒れ人形が、ストーリーに花を添える。
『ひろしま/ながさき』 意味深である。きっと重い。
『あおもり』 とてもアップルな香りがする。のどかなホームドラマの予感が漂う。しかし、ヒットはしそうもない。
『つ』 三重県の県庁所在地である。なんと一文字である。
と、ご覧の通りである。 僕は決して、これらの地方を馬鹿にしているわけではない。全て僕の愚かなイメージである。しかし、多くの日本人が無意識のうちに「何となく」抱いている感覚でもある、ということを少しでも理解していただけたら嬉しい。
再三の記述になるが、言葉は生きているのである。 言葉は単なる記号でもなければ、音声でもない。はっきりと意思を持ち、常に誰かに語り掛けている。 足りない言葉、過ぎた言葉。様々にあるとは言え、その言葉をどう捉え、どう感じ、どう使うかが、一個の人間として日々を生きていく醍醐味ではないかと思う。 我々は、言葉と共に生きているのである。
・・・これを読んだA島は、きっと、 「ははぁ、MMめ、井沢元彦の言霊理論に毒されたか」 と独りごちることであろう。 そそそ、そんなことは全然ないのである。
 |