今日のテーマ『先読み』
先日、ぼくがとある人物(ここでは仮にB氏としておく)と会話していたときのことである。 どういう流れでそんな話題になったかは忘れた。それまでは極めて馬鹿げた与太話で盛り上がっていたはずなのに、ふと、B氏が真剣な顔付きになり、ぽつりつぶやいたのである。
「私は人を信じない。信じても、裏切られるから」
憂いを帯びたB氏の表情、そしてその台詞。 ぼくは少なからず衝撃を受けた。一体、B氏に何があったというのだろう。こんなことを言うからには、それ相応の悲しい過去の秘密があるに違いない。 果たして、それは何であろう?
人を信じない。信じても裏切られるから。
あまりにも重い言葉である。 ぼくはB氏の次の言葉を待ちながら、想像を巡らせた。
例えば、恋のトラウマ。 愛して尽くして身を捧げ、将来を約束しあったパートナー。その相手がこっそりと浮気し、いつしかそれが本気に変わり、あえなく別れを迎えたとしたら・・・
例えば、友情の傷跡。 共に泣き、笑い、励まし合い、将来の夢を語り合った親友。その相手が大 人の知恵と都会の邪気に触れるうち、いつしか人が変わったようになってしまったとしたら・・・
B氏は、ぼくにとって大切な人の一人である。そのB氏が、何か辛い記憶を背負っていると言うのなら、どうにかして少しでもその重荷を軽くしてやりたい。 だが、ぼくに出来るだろうか。そうした過去の傷跡の呪縛をぼくが解き放ってやることが、出来るだろうか。
ぼく「裏切り・・・か」 B氏「・・・」 ぼく「何かあったのか? 俺で良ければ聞くぜ」
ぼくは煙草をくゆらせながら、なぜか急に一人称を“俺”に変えて、B氏に次の言葉をうながした。特に意味はない。ただ何となくハードボイルっぽくした方がこの場の雰囲気に合うような気がしただけだ。
B氏「・・・」 ぼく「いや、もちろん、言いたくなければ言わなくて」 B氏「実は」 ぼく「お、おおっ」 B氏「昨日」
昨日、と来たか! ちと予想外だった。昨日負ったばかりの、出来たてほやほやの過去。 何だろう何だろう何だろう。聞きたい、でも聞くのが怖い。ぼくは燃え盛る葛藤を感じつつ、このシチュエーションに若干の緊張を覚えたせいだろう、煙草を持つ手を軽く震わせながらB氏の口が再度開かれるのをじりじりと待った。
B氏「昨日」 ぼく「あ、ああ」 B氏「うちの母親が」
何ということだ。母親。B氏の傷とは、B氏の家庭の問題であったか。 ぼくは知らず知らずのうちに、極めてプライベートでデリケートな問題に踏み込んでしまった。だが、もう後戻りは出来ない。ぼくは聞かねばなるまい、そして、微力を尽くしてB氏の悲しみを癒さねばならない。 ぼくは覚悟を決めた。
ぼく「母・・・親が?」 B氏「朝、今日の夕飯はすき焼きだよって言ったんです」 ぼく「うん」 B氏「だから私、もう楽しみで、わくわくして夜、家に帰ったんです」 ぼく「うん」 B氏「なのに・・・なのに・・・食卓の上にコンビ二の弁当が置いてあったんです!」 ぼく「うん?」 B氏「ごめん面倒臭くなっちゃったから今日はこれで、って、悪びれもせず母親そう言ったんです!」
・・・
B氏「信じても、裏切られるんだね・・・」
ぼくは手元の珈琲を啜り、灰がこぼれ落ちそうなほど長く伸びた煙草をゆっくり灰皿に押し付けた。 先読みするとろくなことがないという小話である。
 |