「役所のルール」
ぼくは普段、仏のMと呼ばれているほど、めったに怒らない人間である。 誰にそう呼ばれているかと言えば、特に誰も見当たらない。 だが、ぼくが温厚な人間であることは疑いようの事実であり、ぼくほど物静か、どすん、おぅコラそこのワレぇいま肩がぶつかったやろがどこに目ぇ付けて歩いとんじゃこのボケぇ、物静かな人間もいないのである。
そんなぼくだが、先日は少々立腹した。
とある役場でのことである。 税制上のややこしい記述は避けるが、以前、ぼくがこの役場に納付したお金があった。その後、そのお金の半分が還付されることになった。 金額はわずか950円だが、返してくれるというものを断る理由などない。ぼくはそれを受け取りに役場の窓口を訪ねた。
窓口「では、こちらの書類に印鑑を」
役場と言えば判子主義。大人のぼくはそんなこと百も承知である。 さっそく鞄から判子を取り出し、捺印を、
窓口「シャチハタは駄目っ!」 ぼく「あっ!?」
窓口の女性に急にそう言われ、ぼくは捺印しかかった手を止めた。 と思ったが止まらず、あらぬところに判を付いてしまった。
そうなのである。 役所での判子のやり取りにはシャチハタNG。朱肉を付けるタイプの判子が必要なのである。 大人のぼくはそんなこと百も承知のはずだったが、普段、鞄に入れっぱなしにしているのがシャチハタであったため(実印など怖くて持ち歩けない)、うっかりそれを持って来てしまったのである。
窓口「あー、この書類は書き直しですね」
黒ぶち眼鏡をくいっと上げて、窓口女性が微妙に皮肉混じりな口調で言う。
ぼく「あの、今回はシャチハタOKってことで」 窓口「だめです」
と、にべもない。 仕方がない。家に判子を取りに帰ろう。 その旨を窓口女性に告げて、一旦その場を辞去しようとすると、
窓口「本日の受付は6時半までですので」
時計をちらと見ると、すでに6時近い。ぼくは、家から役場までの往復距離をざっと計算して、
ぼく「5分くらい遅れても待っててもらえま」 窓口「だめです」
ぼくは内心憤然としながら、自宅に戻った。こういうとき、ぼくはその日のうちにあれこれを片付けてしまわなくては気が済まないたちである。 机の中から実印を持ち出し、すぐに役場に取って返した。 この間、ドラゴンボールの孫悟空が界王星から現世に戻って来るよりも早かったと思われる。
ぼく「はぁはぁ、こ、今度は実印です」 窓口「御苦労様です」 ぼく「判子をぎゅっ、と」 窓口「結構です。では還付金の950円をお持ちします」
やれやれ。やっと手続終了だ。 わずか950円のために随分と苦労した。 そう思いつつ、ぼくは何気なく小銭入れを見た。千円札でスポーツ新聞でも買ったせいだろう。ちゃらちゃら小銭で脹らんでいた。ここにさらに950円は入らないかも知れない。
ぼくは小銭入れから50円玉を取り出し、言った。
ぼく「50円お釣り払うんで、千円で下さい」
そうだ。そうしよう。我ながら頭がいい。
窓口「だめです」 ぼく「えっ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げていた。
窓口「それがルールです」 ぼく「しかし」
古本屋などで本を売った代金を受け取るときには、逆お釣りも出来るではないか。
窓口「古本屋とは違うので出来ません」
何と言うことか。こちらの思考を読まれた上であっけなく断られてしまった。
窓口「では、こちら950円です。ご確認を」 ぼく「はぁ」
まったく役所のルールは窮屈である。 ぼくは半ば辟易しながら950円を受け取るため掌を差し出した。 すると!
窓口「百、二百、三百・・・」
おったまげた。 窓口女性は、ぼくの掌の上に1枚づつ百円玉を並べ始めたのだ!
ぼく「いや、自分で確認しますって」 窓口「だめです。規則です。四百、五百・・・」
そうして、ぼくの掌には、小銭がどっさり乗った。 途中、落語の『ときそば』のように、お金を誤魔化されるんじゃないかと邪推すらしたが、さすがにそれはなかった。不幸中の幸いである。 百円玉でぱんぱんに脹らんだズボンのポケットが、ちゃりんちゃりんと音をさせる。 岐路、怖い中学生にかつあげされなかったのは、不幸中の幸いである。
後日。 役所勤めの友人と食事をする機会があったので、彼にこの話を愚痴混じりにしてみた。
友人「それは許せない話だな」 ぼく「おお、そう思うか」 友人「まったく困ったことだよ」
ぼくは安心した。彼のような役人が一人でも増えれば、明日の役所は明るいに違いな
友人「ルールは守ってもらわにゃ」 ぼく「えっ!?」 友人「50円出すから千円寄越せなんてとんでもない」 ぼく「えっ、えっ!?」 友人「出納係の苦労をわかれ。以後、我儘は慎みたまえ」
・・・
ルールとは困ったものである。
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