今日のテーマ「眼鏡を尋ねて三千里 前編」
不幸とは、往々にして平凡な日常に潜んでいるものである。
その日の私も、朝からまったく変わり映えのしない日常を生きていたのだ。 だが、その“予兆”めいたものは、いつでも日常の背後に寄り添っている。
例えば、 『黒猫が目の前を横切ると不吉』 などということが巷ではよく言われる。 その日の私は、そんな事態には遭遇しなかった。 しかし、今になって思えば、朝、職場へと急ぐ道で、私の目の前を走り去った宅配便は、クロネコヤマトだったような気がする。
あるいは、 『茶柱が立つと縁起が良い』 などということも巷ではよく言われる。 その日の朝、私が飲んだ茶に茶柱は立っていなかった。 かと言って、縁起が悪いというわけでもないであろう。 しかし、今になって思えば、その茶は、茶漉しの底が破れでもしていたのだろうか、茶っ葉がやたら混じってたいそう飲みにくかった気がする。
結局、それらは全て、事件の予兆だったのかも知れない。 私の身を突然にして襲った不幸。 日常という名の安らぎを唐突に切り裂いた霹靂。
簡潔に述べよう。
俺の眼鏡、壊れた。
いや、壊れたという言う方は正しくあるまい。 壊れたと言ったら、何だか私の眼鏡のレンズが割れた、もしくは“つる”が曲がった、などの印象を読者に与えかねない。そんな格好悪い姿を想像されるのは甚だ遺憾である。 なので、説明し直す。
俺の眼鏡、真ん中で千切れた。
これが正しい。
眼鏡をご愛用の方ならおわかりと思うが、眼鏡には、右レンズと左レンズをつなぐブリッジがある。そのブリッジがきれいに真っ二つになったのだ。 しかも、掛けたままの状態で。
一体、いつそんなことになってしまったのか、私は今でも思い出せない。 職場へと向かう電車の中、私は一度眼鏡を外した。ネクタイでレンズを拭いた。そういう仕種に色気を感じる女性多し、という、スパだがプレイボーイだかで読んだ記事に従い、愁いを帯びた溜息など吐きながらせっせと拭いた。私に釘付けになっていたOLもさぞ多かったことであろう。
そのときは、眼鏡は無傷だったのだ。
ただ、職場のある駅に降り、公衆トイレで用を足し、洗面台に設置された鏡を見たとき、目の前に映っていたのは、真ん中で千切れた眼鏡を掛けている男だった。 その時の衝撃なら今も覚えている。きっと、私に釘付けのOLも多かったことであろう。
とにかく、私は焦った。両手で丁寧に眼鏡を外した。片手で颯爽と外す方が女性のハートを鷲掴みにすると、スパだかプレイボーイだかで学習済みだったのだが、この際、そんなことは言っていられない。
私の左右の手に、眼鏡が丁度半分づつ乗った。 右手に右レンズ、と右半分のブリッジ。 左手に左レンズ、と左半分のブリッジ。 一瞬、両手の間に鏡があるかと思ったほどだ。それはそれは見事な対称図だった。
だが、そんなことに感心している場合ではない。 これから私は出勤なのだ。このままでは、眼鏡がないまま一日の仕事をこなさなければならない。 私はコンタクト嫌いであり、かつ、そのときは予備の眼鏡も持っていなかった。
もし、私の職種がフォークリフトの運転士だったら、目がよく見えない状態での仕事など絶対に出来ない。ちょっとした運転ミスが人命に関わる大事故につながる。危険だ。 もし、私の職種がヒヨコのオスメス鑑定士だったら、目がよく見えない状態での仕事など絶対に出来ない。ちょっとした仕分けミスが、家庭のタマゴ料理に直結するのだ。危険だ。
幸いにして、私の職種はそのいずれでもない。見えづらくても何とかなることはなる。だが、視界不良の状態で過ごすというのは、これは実にストレスが溜まるものだ。集中力も格段に落ちてしまう。
現状を打破しなければならない。だが、始業開始まで、もうあまり時間はない。 私は、周囲を見回した。眼鏡屋を探した。しかし、0.2の裸眼では街の風景が霞んで見える。苛立ちが募る。 私は左半分の眼鏡を掛けた。通りすがりの老婆が、郷愁にも似た視線を私に送る。そう言えば、大正時代の貴族が掛けていた眼鏡は、金のチェーン付きの片眼鏡だった気がする。江戸川乱歩の探偵小説の挿絵で見た覚えがある。そうか、今の私は貴族なのか、ルネッサーンス。違う、そんなことはどうでもいい。とにかく眼鏡屋を、いや待てよ、眼鏡屋で修理に出したとしても、どんなに早くても数十分はかかるのではないか、とすれば、始業時刻に間に合わない。それなら一体どうすればよいというのか、私は周囲を見回した。左側だけよく見える。
そのとき、私の視界(左側のみ)がコンビニを捉えた。 頭の中で素早く、プランを立てる。 今はひとまず応急処置、そして昼休みに眼鏡屋。 そうだ、これしかない。 幸運にして、今日の私は昼休みが二時間とたっぷりある。友人とのランチを生きがいにしているOL読者の羨ましがる声が聞こえてきそうだが、その分、退社時間は遅いのだから勘弁してほしい、いや、そんな説明をしている暇はない。
私はコンビニに駆け込んだ。 入る直前、左だけの眼鏡はそっと外した。
(次回に続く)
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